ずっと読みたかったのに、なぜか手を出せないでいたRIKOシリーズのスピンオフ。
友だちが貸してくれたのでようやく、そして久しぶりにまともな小説を読んだ。(クリスマス・カロルは別の意味でまともな小説ですが。)

ほんっとに、すごく、リアリティのある人間が出て来るんだよな。そしてもたつかない文章でぐいぐい先へ引っ張る。おもしろい。

そして、麻生と及川のある意味終わりの見える蜜月。及川の気持ちは涙なしには読めない。

続きの「私立探偵・麻生龍太郎」も借りてるので、続けて読みます。


姉も柴田よしきファンなので、これも薦めようと思うのだけれど、でも、ごくパンピーな姉がこの小説を(というか及川を)どう読むのか、不思議なんだよな……。
この冬ディズニーアニメが公開されるこの話、昔実写映画で見た気がするのだけれど、金貸しのスクルージがクリスマスの夜に3人の幽霊に過去・現在・未来を見せられて改心する話、という基本的な筋しか覚えていなくて、これを機会に村岡花子訳版を読んでみた。

まあ、上に書いた筋がすべてなのだけれど(笑)、ディケンズの、重々しく持って回った(まだるっこしい?)描写が、この単純な寓話を厳粛な物語にしている。

話は違うけれども、やっぱり昔はもっと時間が緩やかに流れていたんだろう、と思う。
情報過多な現代、こんなまだるっこしい書き方をしていたらみんな10ページで投げ出しちゃうだろうな(笑/除高村薫)。

それと、ふと奥付を見たら、初版が昭和27年、私が買ったのは今年の7月の105刷(!)でした。
脚本(シナリオ)通りにはいかない!
著者: 君塚 良一
単行本: 287ページ
出版社: キネマ旬報社 (2002/08)
ISBN-10: 487376243X
発売日: 2002/08
http://www.amazon.co.jp/dp/487376243X/


細々とドラマの現場myブーム。
これは、「踊る大捜査線」の脚本家が、古今東西様々な映画のシナリオを、脚本家の視点から読み解くキネマ旬報連載の単行本化。
とてもおもしろかった。物語を、どうやってドラマ(もしくは映画)というパッケージにして商品にしていくか、という過程(の前半、脚本にするまで)がよくわかった。
見ていない映画も多かったので、いくつか見てみようと思う。
そのひとつが、「スウィート・ヒアアフター」。アトム・エゴヤン、ずっと気になってたんだよな。

以前よく見ていた海外ドラマ・映画の二次創作サイトを久々に訪れたら、オリジナルで商業出版されていたことを知りました。(2003年刊。……どれだけ久しぶりだったのか。)
それこそアメリカのゲイミステリのような重厚な話を書く方だったので、いそいそと通販しました。

サイトの小説よりは、濃ゆい翻訳小説っぽさが薄まっていましたが、それにしても普通のBLには収まらない、読み応えのあるBL小説でした。
久しぶりにBL小説を読んだなぁ。それも非常に楽しく。下手をしたらカイシャの昼休みにも読みたくなりそうなくらい。(かろうじて自制した。)

でも、この本以降、単行本は出ていない様子。
まあ、ねえ。コアな(少数の)ファンに熱く支持される系の作風だからなぁ。
でも、こんな作風の作家も生き残れるような懐の深さがBLにあり続けることを期待します。

今年に入って、雑誌に短編を発表されたようなので、何本かたまったらまた単行本にならないかしら? 気長に待ってます。
はっはっは(乾いた笑い)。
私の好きな、カナダの元フィギュアスケート選手(現在、引退してプロになってます)の写真集が、なぜかこの日本で刊行されることの不思議。
(カナダでは1月に発行済み。当然購入済み)

しかもメッチャアイドル写真集っぽい企画らしいとのことで、たとえファンでも気恥ずかしく、もしやこれを買うのは踏み絵?羞恥プ■イ?わたし何か試されてる???と思いつつも予約しました。ええ。ファンの使命として(笑)。

届いたのは右写真のような、「これマジでフィギュアスケート選手の写真集かよ?」と毒づきたくなるような恥ずかしい表紙の大判写真集でしたが、あにはからんや。これが意外とよい出来でねぇ。バトルのコスプレ写真(ロッカー風とかゴシック・ロマネスク風?とか、着せ替えで遊ばれてる写真もある……)も、まあ許容範囲っつか、もはや矢でも鉄砲でももってこいってんだ!な心境で楽しむことが出来ました。

……こうしてファンは骨の髄までカネを吸い取られるのだな(遠い目)。
古代から現代までの、日本語のアヲ(青)とミドリ(緑)という言葉と、その指し示す色味について使用例を数え上げて考察している本。

一番分かりやすい例が、「なんで信号の”進め”はミドリのライトなのに青と呼ぶのか」ってのがありますが、信号機が日本で初めて登場したのは昭和5年だそうですが、100年足らずの間にもそんな「言葉と意味のずれ」ってのは起こっているってのがまずおもしろい。
というわけで学生時代に一度このテーマでレポートを書いたことがあったのですが、国語学を勉強したわけでもなかったし、レポートの書き方なんてちゃんと勉強してこなかったので、方法論とかまるでなってなかったなぁと、今になって反省してます。
この本のようなのが、本当の国語学の研究であるのだ、と。

いろいろと示唆に富んだ報告がなされているのですが、特に印象に残っているのが、

・色の名称は、冠位を示す色(つまり中国から入ってきた)に影響されたはず
・中世、柳は「アヲ」で松は「ミドリ」だった。
・空を「アヲ」と呼ぶようになったのは割りと最近
・黄色を「アヲ」と呼ぶ方言が、沖縄と青森(と飛騨?)に残っている

いま記憶で書いてるので、この本の趣旨とずれてたらすみません……。
と、いうわけで、夕飯を食べ終わってからいそいそと読み始め、そのまま一息に読み終えました。
いやあいやあ、おもしろかった!
もちろん、イギリス的ユーモアがおもしろい、というのもあるけれど、

* 読書の楽しみに目覚めていく女王陛下(作中で直接エリザベスII世とは呼ばれませんが、いまの女王であることはおのずと分かる)が、ちょうど自分が読む楽しみを知り始めたころの気分、寸暇を惜しんで本を開き、どこにでも持ち歩き、他の生活がなおざりになってしまう様子と重なる。

* 実在の本や作家の話が出てくる。基本イギリス人ばかりなので、読んでない本もあるけれど、少しでも知っている作家、例えばフォースターやオースティンやヘンリー・ジェイムズが槍玉に上がると大変おかしい。

あたりは、本読みに強くアピールするおもしろさだと思う。さらに

* 脚本家らしい、無駄に細かい描写のない切れのいい文章と無駄のない構成

ってのもポイント高し。最後の女王のひと言がものすごく効いてるのは、さすが脚本家の面目躍如。

それにしても、以前感想を書いた、この著者の脚本の映画「ヒストリー・ボーイズ」といい、この本にも(直接描写はされないけれど、おそらく)ゲイの少年が出てくるところといい(以下略)。


いつ翻訳が止まるかと冷や冷やしながら読み続けている、紀元直後の古代ローマを舞台にしながら現代的なぼやき系密偵の大家族もの。<大いに間違っている。

今回はギリシアへのツアーに参加していた若い女性が亡くなった事件を探るために、ギリシア・ペロポンネソス半島への旅。
付いていく家族はそれなりに聞き分けのいい若い者ばかりでファルコをさほど悩ませない代わりに、事件はまったく手がかりがつかめずほぼ観光状態。常軌を逸している人2人が事件の鍵を握っているのだけれど、この人たちがほとんど登場しないのがイマイチ感の原因かしら。
ファルコが危機に陥るといってもあまりケガもせず痛い思いもせず。
そのくせ最後は非常~~~に後味が悪く(涙)。

ただ、この巻にほのめかされていた、ファルコの愛妻へレナの弟二人のLOVE AFFAIRの予感が、やはり続きを期待させるのでした。
本国では今年最新刊も出たらしいし。楽しみだ~!


「踊る大捜査線」で有名な脚本家の、自分を主人公にした半小説。
2001~2003年ごろの仕事の様子をフィクション的に描きながら綴っている。

で、この小説のおもしろいところは、自分のドラマの創作技法や創作過程を、現実から少しずらしてフィクション仕立てにして語っているという二重構造なところ。
それと、やはりもともと脚本家だからか、会話で話を進めるのが上手い。少ない描写で多くを伝える。
さらに、これは偶然なのだけれど、直前に読んだ「ぼくらがドラマをつくる理由」が2001年2月に発行されていて、この小説が2001年5月から始まっているので、時代的にも続きのように読める。しかも共通して登場する人がいて、どちらの本でも同じことを言っている。それで余計に現実とフィクションの境が曖昧になって、とてもよい効果となった。

結論。
君塚良一って天才?!<いまさら……

ちなみに私はテレビ版の「踊る」をまったく見ていません。
でも、「踊る」本を1冊持っていて熟読しました(笑)。映画も1は見ました。
実はわたしはドラマってほとんど見ないので、この本が書かれた2001年ごろに常識だったドラマ(ロンバケとかビューティフルライフとか)をまったく知りません。
さらに、この本は脚本家・ディレクター・プロデューサー×2の対談と、それぞれ一人ずつのインタビューを交互にさしはさんでいるんですが、どの人も語り口が感覚的というか当然わかってるだろうことの省略が多くて、しかも編集段階で、話し言葉なら通じるけれど書き言葉になったら補ってほしい言葉を補わずにほぼそのまんま書き起こしているので、ぴんと来ない部分が多々ありました。
正直、読み物としては8年のギャップが大きすぎました。

が。
資料としては非常に使える情報が散らばっていて、大変楽しめました。
ドラマのスタジオ収録で、1日に撮れる尺が15分程度、なんてすごく”使える”数字です。
通勤電車で読んでたんですが、付箋を立てたい箇所がいくつもあって覚え切れませんでした(汗)。
お友達の本読みブログで褒められていた(ような気がした)ので、3冊まとめてぶこふ(=BookOff)ってみた。

ゲイでタチの雑誌編集者(28)が、成り行きで同居させたノンケの若手カメラマン(24)を喰うつもりが喰われる1巻。

編集者が学生時分にトラウマになるほどこっぴどく捨てられた年上の元カレに再会し、仕事でダメージを喰らっていたカメラマンが誤解&嫉妬して家を出て行く2巻。

そして、カレと別れてダメージを喰らい、仕事でも失態を犯してダメージ二乗喰らった編集者が、1冊かけてトラウマを克服する3巻。

と、要約してみました。

編集者もカメラマンもホテルマン(元カレ)もちゃんと「仕事を持った男性」として書かれてて好感。とくに編集者は、もともと著者が雑誌編集者だったというだけあってリアルな仕事描写に感情移入できました。(こんなハードな仕事をしたことはありませんが/笑)
一般的なリーマンBLって、リーマンといえども仕事をしている描写がなかったり、頭の中が

恋愛>>>越えられない壁>>>仕事

だったりすると、それはもう「ある種のファンタジー」として読むのですが、この編集者はどちらかというと仕事ありきで、そこへ(それまでトラウマが原因で避けてきた)恋愛問題が降りかかってきちゃったものだからパンクして、という切羽詰り感がよかったです。

とはいえ、このカメラマンの設定はまさしく働く女のためのファンタジー(はぁと)。
自分が打ち込んでいる仕事で疲れきって家に帰ると、見た目も自分好みのカレが掃除・洗濯片付けておいしい手作りの料理を作って待っててくれる。
しかも、特にカレに対して自分からアプローチするわけじゃなくても、自分の仕事振りをみて尊敬してあこがれて一途に好きになってくれるなんて、なんという天国(笑)。

これは別に作品を批判している気は毛頭なくて、仕事に疲れた女にはちょうどいい脳への糖分補給になる、ということです。
しかも最後は10日の休暇をもぎ取って、カレに会いにチュニジアにバカンス! ああ~チュニジア行ってみたい。というか海外旅行のために1週間有休取りたい!!

もしひとつだけ注文をつけるとすれば、元カレの設定かな~。学生だった主人公とバリバリ仕事人であるカレとの意識のずれとか、カレの仕事に対する思い入れとかには共感したので、あんな人でなしでなくもっと常識の範囲内の人にしてほしかった。
まあ、しょせん当て馬なので、読者が感情移入できちゃうとなにかと差し障りがあったり話をきれいにまとめられなくなっちゃったりするのかもしれませんが。

3冊一気読みしました。楽しかったです。

演出家による、企画から第1回放送分の完成までの制作日誌。
とある事情(笑)により、現在ドラマの制作現場に関心があって、ここには書いていないけれどとあるドラマ専門学校のプロデューサー・演出家養成コースのテキストを取り寄せてみたり、神保町の芸能関係専門古書店でドラマの台本を買ってみたりしている。その一環でこんな本も読んでみた。
実は、ドラマ「義経」自体は見ていない(汗)。
演出家の役割分担、というかやることがよくわかっておもしろかった。へええ、そんなことを考えてドラマを作っているんだ、とか。あと専門用語とか。「シナハン」なんて言葉、初めて知りました。
でも、日誌といいながら日付がすべて伏せられていたのが、資料としてはいまいち使えなかった。←この本の趣旨ではありません(笑)。

ちなみに、このためにNHKのファンクラブに入ってドラマのスタジオ見学に申し込んだけれど抽選漏れした。やっぱりスタジオパークに行くしかないのかしら……。
大変エキサイティングにおもしろかったのですが、書きたいことがありすぎるので感想は週末に~。

というわけで週末。

こういう女装論とか同性愛論って、研究者による外側からの研究は本質を突いていないもどかしさがあったり、逆に当事者が語ると主観的すぎてツッコミどころ満載なことになったりするもので、最初に書店でこの本を見かけたときも、また当事者の思いいれたっぷりな本なんだろうと思って手に取りませんでした。

でも、昼間の仕事関係の個人ブログ(おそらく当事者ではない)で評価されていたので、たまたま読む本がなかったこともあって買って読んでみた。
大変エキサイティングにおもしろかった。

大きく前半と後半に分かれていて、前半は、著者が膨大かつ一般的でない多数の文献から、日本の文化における女装の歴史を解き明かす。
後半は、著者が自身の経験を語りつつ現代の女装について解説する。
で、この前半部分が、もちろん著者の学究的な主張に偏ってはいるけれど、アカデミックな訓練が行き届いた記述に非常に安心感を覚えて読み進めました。
大変アカデミックなので、普通に読んだらポ■ノになりかねない部分も普通に読めましたし。
そんなわけで著者の前半の主張は、「古来日本の文化では異性装は宗教や祭りの場で普通に受け入れられていたけれど、明治期の西洋化によって”変態”として認識されるようになった」ということ。

後半は、現代の女装者としての著者の事例を紹介しつつ、混同されやすい「女装者」と「同性愛者」の違いを切り分けるのですが、やはり「自分語り」になるとやや客観性が薄れるものの、まあ読めないほどではありません。
私はあらかじめ、女装と同性愛者の違いは理解していましたが、新宿の繁華街において場所のすみわけが出来ていることは知りませんでした。どちらも二丁目に集まっているのかと思っていたら、前者はどちらかといえば歌舞伎町のほうが中心なんですね。このへん、きちんと地図に店の場所がマッピングされた図があって、非常に参考になりました。(←なんの?/笑)

さらに感心したのが、カトゥーイ(女装)文化の根付いているタイと、その周辺国における祭りでの女装文化、また中国の京劇や朝鮮半島に近現代まで残っていた女装の巫子の文化を引き合いに出して、恐らく東~東南アジアには共通して女装文化が存在していたのだろう、という指摘と、現在、特にタイと日本で女装が受け入れられているのは、この2国が植民地化を免れたために西欧キリスト教の価値観の押し付けを免れたからだろう、という主張。

でも、もちろんそのまま受け入れられない主張などもあります。
例えば、江戸期までは女装は日本の中で文化として受け入れられてきた、日本は女装者に優しい国、といいますが、そうは言っても日本で女装が受け入れられたのは、非日常の存在として、であっただろうと思います。ハレとケでいったらハレの部分でだけ。だから非日常の演出として男女が装束を取り替えるとか、宗教場面で神と人間の仲介としての役割を与えられるとかはあっても、日常の場面で女装はありえなかったと思います。
それは現代のマスコミでの扱いにも感じていて、あらかじめ女装は非日常であって自分たちに直接関係ないパラレルワールドな存在、という前提があるからその存在を許されているように感じています。西欧の近世の宮廷にいた道化や小人みたいに思えるんです。
それって、果たして本当に「女装者に対して寛容」と言えるのかな……?
日本でも、非日常の存在である女装者がいきなり日常に割り込んできたら、つまり、ブラウン管の向こうとか夜の街とかでなく、職場の隣の席に女装者がいたら、やっぱりかなり激しい排除にあうんじゃないかと思うんですが、どうだろう?
まあ、キリスト教原理主義な人たちにいきなり撃たれる心配はないだけましなのかもしれませんが。
知人の職場の後輩の男性が、ある日を境にいきなり女装で勤務し始めた、という話を聞いたことをふと思い出しました。いきなり解雇とかいじめとかって話にはならなかったと聞いたと記憶していますが、やはりしばらくして退職したとのことでした。

もうひとつ、それは違うんじゃないかと思ったのは、この本でなくてこの著者が先週発売された週刊誌のコラムに書いていたことなんですが、ゲイタレントや女装者のメディア露出が多いのに対して、レズビアンや女性の男装者は、メディアでもほとんど取り上げられず、不可視化されているのを問題視していました。
それは、見るほうも見ないようにしているのかもしれませんが、見られるほうも見られないようにしているのではないかと思います。
卑近な例で言えば(笑)、男性のオタクがメディアでもよく取り上げられてある種のステロタイプなイメージが一般に浸透しているのに対して、腐女子がほとんど話題にならず、いっとき乙女ロードや執事喫茶が話題になってもすぐに沈静化するのって、腐女子の大部分が「メディアにおもしろおかしく取り上げられたくない」「世間に迷惑を掛けずにこっそり好きなことをやっているんだから、ほっといて」というメンタリティでいるからだと思います。
同じことが、男装者やレズビアンの人たちにも言えるんじゃないかなぁと思うのです。

それって、男性と女性の基本的な考え方の違いだと思います。
男性って、社会で自分が認められることに価値を置いているから、自分たちを評論したり、自分たちのことを語ったりしますけど、女性は基本的に、世間に受け入れられれば認められる必要性を感じてないんじゃないかなぁ。名より実を取る、というか。
もちろん、女性の中でも社会で認められたいと思う人もいるでしょうし、実際に生活上不都合を感じたときには、自分たちの存在を社会的に認められて権利を取得するほうに動こうとしますけど、そういう実利がなければあえて摩擦を起こそうとしないでしょう。
そういう意味で、この本の著者も、そういう部分では男性脳なんだろな、と思ったり。

なんていろいろと考えさせられる、という意味でエキサイティングな本でした。


BookOffオンラインはとても悩ましいサイトで、欲しい本の入荷お知らせを登録しておくと、古本が入荷されるとメールでお知らせが来る。で、古本なので1冊300円とかそこらなのだけれど、1500円から送料無料になる。すると、ついつい1500円になるまで”喫緊に欲しいわけではないけれどいつか読みたい本”まで買ってしまう……。

この本も、ファンタジーノベル大賞を受賞したときから気になっていて、でもなかなか思い切って手に取れなくて、でもよくよく考えたら「ムジカ・マキーナ」と混同していた点もなきにしもあらず。(そしてムジカ・マキーナも未読……)
で、最近友達のブログで感想が書かれていたのを思い出し、送料無料の穴埋めに購入。

正直言うと、この落ちは王道というか、手を変え品を変えいろいろな形で書かれてきたテーマだと思う。それをひとつの作品として独立させているのは、その落ちに至るまでの論理の破綻のなさだろう。エピソードをひとつひとつ積み上げて、落ちに至るまでにとっぴな飛躍がない。

もうひとつは、音楽と科学技術に対する莫大な知識量。こういう事実をこれでもかというほど矢継ぎ早に繰り出されると、その中にするっとウソ(この場合はフィクション)が入ってきても読者はすんなり受け入れられる。

その上で、あえてわがままを言うならば、もう少し登場人物同士の気持ちの葛藤が読みたかったな……。
周辺の登場人物は紋切り型でも構わないけど、主人公と、その友人である天才オルガニスト、オルガニストとその師匠の葛藤をもっと、(わたしが斜め読みした/汗)オルガンの構造や『マンドラゴラ』の仕組くらいに嫌になるほど書き込んでくれたら、最後のオペラ(?)がもっと壮大になったような気がする。

やっぱり理系な人の小説かな、と感じました。

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