愛の続き
2011年7月1日 読書記録第5紀(10.12~)
映画「Jの悲劇」の原作。
映画を見たときに記録だけ残して感想を書いていなかったようですが、印象的な映画だったのでつい原作も手にとって、あちこち浮気しながらゆっくり読んでいました。
やはり、冒頭の気球の事故はとても印象的。
映画の製作に原作者も関わっていたそうなので、その後のパリーによるストーキングのエピソードが若干違うけれど、そこは「原作のエッセンスを取り出して映画的に表現するにはこのほうが効果的だということなんだろう」と、比較しながら読みました。
ラストが大きく異なっていて、原作者が映画に関わっていなかったのなら
原作ファンから総スカン喰いそうな、安易な、そしてビジュアル的に派手な終結に
変更されていましたが、原作の余韻と、そして「付録」と称して最後につけられている
ド・クレランボー症候群についての解説と症例は、映画ではそのまま表現することは
難しいでしょうから、
異なるラストにするならば、映画のあれはひとつの選択だったのだろうと思います。
いや、ホントに、付録にやられました。
そこまできてようやくタイトルの意味がかっちりと組み立てあがるんですね。
とはいえ、実は、日本のマンガならこういう話を、もっとイタイ心理描写を
執拗なくらい重ねてすごく”刺さる”作品にするんじゃないかしら。
というかそういうマンガが読みたい、と思ったりしたのはナイショです(汗)。
「残酷な神が支配する」みたいな感じで。もっと青年マンガでもいいけど。
主人公のジョーは、恋人のクラリッサと出かけたピクニックで、気球事故に遭遇する。その場にたまたま居た何人かの男たちが救助に駆けつけた。乗組員は無事だったが、救助にあたった男のひとりが、死んでしまう。その事件後のある夜、1本の電話がジョーのもとにかかってくる。「あなたはぼくを愛している」と。声の主ジェッド・パリーもまた、あの事件現場で救助にあたった男たちのひとりだった。彼はジョーと出会ったことを単なる偶然と片付けられずに、「神の意思」と解釈するが、それ以降、パリーのジョーへのストーキングが始まる。クラリッサは一笑に附し、警察も取り合わない。だがパリーの一方的な愛は、次第に脅迫へとエスカレートし、ついには現実の暴力となって、ジョーやクラリッサに襲いかかる。
パリーの愛は「ド・クレランボー症候群」と名づけられる。ある人物が自分を愛していると思い込む妄想症の一種である。しかし妄想に陥るのは、彼だけではない。ジョーはクラリッサがパリーのストーキングに無関心なために、ほかに男がいるのではないかと想像し、彼女を難詰する。事件現場で死んだ男の妻は、その男がピクニックに別の女を同伴していたと思い込んでいる。
退屈な日常では、ほんのささいなことで現実から足を踏み外すことができる。巻末に掲載されたド・クレランボー症候群の実症例を眺めて、この小説が遠いかなたの出来事ではないことに気づいたら、もうマキューアンの術中にはまっている。(文月 達)――Amazonより
映画を見たときに記録だけ残して感想を書いていなかったようですが、印象的な映画だったのでつい原作も手にとって、あちこち浮気しながらゆっくり読んでいました。
やはり、冒頭の気球の事故はとても印象的。
映画の製作に原作者も関わっていたそうなので、その後のパリーによるストーキングのエピソードが若干違うけれど、そこは「原作のエッセンスを取り出して映画的に表現するにはこのほうが効果的だということなんだろう」と、比較しながら読みました。
ラストが大きく異なっていて、原作者が映画に関わっていなかったのなら
原作ファンから総スカン喰いそうな、安易な、そしてビジュアル的に派手な終結に
変更されていましたが、原作の余韻と、そして「付録」と称して最後につけられている
ド・クレランボー症候群についての解説と症例は、映画ではそのまま表現することは
難しいでしょうから、
異なるラストにするならば、映画のあれはひとつの選択だったのだろうと思います。
いや、ホントに、付録にやられました。
そこまできてようやくタイトルの意味がかっちりと組み立てあがるんですね。
とはいえ、実は、日本のマンガならこういう話を、もっとイタイ心理描写を
執拗なくらい重ねてすごく”刺さる”作品にするんじゃないかしら。
というかそういうマンガが読みたい、と思ったりしたのはナイショです(汗)。
「残酷な神が支配する」みたいな感じで。もっと青年マンガでもいいけど。
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